#01負けん気の強い、幼少期でした。

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HISTORY
#01
負けん気の強い、
幼少期でした。

負けん気の強い、
幼少期でした。

1959年に長野県千曲市で生まれました。自転車を質屋で買うような貧乏な家庭で育ちましたが、親が馬鹿にされるのが嫌で貧乏に対しての悔しい気持ちから喧嘩もするようになりました。小さいときに病気をしたことで学校の部活動も運動部ではなくアマチュア無線部に入りましたが、やはり運動をしたくなりこっそり水泳部に入りました。
当時から負けたくない気持ちが強く、水泳部でも持病がありながらも誰よりも練習をし、県大会で3位になり全国大会に出場するまでになりました。水泳の才能よりも努力と効率性でカバーしたと思っていますが、全国大会にいざ出てみると自分よりも強いやつがたくさんいて、そこで小柄な自分がここで勝負するのは無理だと水泳の道は諦めました。
学校生活は貧乏と向き合うことが多い日々でした。普段穿いているトレーニングパンツはよく膝がすりむけるので穴が空きます。パッチを縫う人もいますが当時の僕は貧しい家庭事情を見せたくないから、自分でミシンを改良してトレパンの修理をするようになりました。お金がないから自分で修理する、今思えばこれがものづくりに対する原体験だったのかもしれません。

アメリカへの、強烈な憧れ。

アメリカへの、
強烈な憧れ。

1959年生まれの僕たち世代は、とにかくアメリカへの憧れの強い世代です。高校生の時はアメリカの全てに憧れていて、世界中の人たちはアメリカに夢を叶えるために集まっていました。その中でも1950年代への興味は強く、そこでの憧れや見聞きしたことが、その後、日本の良いところと融合させようという思いに変わっていきます。
僕たちにとって憧れの的だったアメリカも、戦時中は多くのアメリカ国民が我慢を強いられました。例えば一枚板のギターも三枚板で作らざるを得ず、その結果「どうだいい音だろ」とは言えず、「どうだかっこいいだろ」と言わざるを得なかった時代がありました。そうしたこともあって、戦争が終わってからもう自由にしていいよとなってからは、人々は無駄を楽しむようになりました。一巻きで良いものを二巻きにしたり、無駄を楽しむ時代が1950年代にはありました。
アメリカに憧れたのはLevi'sの影響が強かったです。当時水泳部を辞めて不良に傾倒し、バイクを乗り回していた僕は自分をかっこよく見せるためにファッションに目覚めました。小学校の頃に入ってきたLevi'sは当時5千円弱。でも僕はお金がなかったので、そうした舶来ジーンズは穿けず国産のものを着ていました。そうしたことが、メイド・イン・アメリカへのあこがれを募らせたんだと思います。
当時はインターネットもありませんでしたから、アメリカを知る手がかりは雑誌か映画でした。1950年代にはイサムノグチやイームズなどのプロダクトが出てきて、そうしたアメリカのデザインにも興味がわきました。映画を見ていてもジェームス・ディーンを始め多くの俳優がミッドセンチュリーという時代で観客を魅了していました。自由に自分がつくれるというおもしろさが、アメリカには詰まっていました。

高校中退、カラオケパブ、ポルシェ。

高校中退、カラオケパブ、
ポルシェ。

停学を7回繰り返した挙げ句、結局高校3年の2月に中退しました。当時バイクにずっと乗っていたのでレーサーにでもなろうと思って調べてみると、そうなるためにもお金が必要だということがわかり、それならと商売をしながらレースに出る方法を考え始めました。ちょうどそのときカラオケが流行り始めた頃だったので、僕は銀行と公庫から500万、400万をクレジットで借入してカラオケパブを始めたんです。僕はお酒を飲まなかったのでスナックなどの経験もなかったため、自分が良いと思うお店づくりをした結果、カラオケ設備に相場の4倍くらい費用をかけて、またテーブルチャージなどのシステムもなくして、「安くて歌がうまく歌える店」という個性のある店ができました。
当時は景気も良かったので、夕方5時に開店して翌朝9時までお店が繁盛するような時代でした。そのお陰で僕もポルシェを現金で2台買えるくらい、時間はないけど金はあるという状態でした。そうした経営を続けていく中で望ましくない付き合いも増え、26歳でその生活が嫌になりいろいろ売却してお店もやめたときには1400万の借金が残りました。お金もない、飲食の経験もない、というところから始めたカラオケパブですが、再びなにもないところに戻ってきてしまいました。

残った1400万円の借金。

残った
1400万円の借金。

それから僕はその借金の1400万をどうやって返すかを考え書き出しました。時代が良かったので稼ぐ方法はいろいろありましたが、その中でも僕は損害保険を選び就職活動をしていました。面接、営業と好印象を持ってもらえるようにと、徹底的に笑顔の練習をして面接に臨み、7つすべての会社から内定をいただきました。しかし金融機関のためその日のうちに借金が判明し、内定も撤回されてしまいます。なんとか父がその昔面倒を見た方が保険の代理店をやっていた関係でそこに拾ってもらい、そこに就職できました。そこから3カ年計画を立て、3年半で借金は返済しました。

しかしもともと保険が好きで始めたわけではなかったので、やはり自分の興味があり憧れの仕事をしたい想いが強くなり、昔から憧れの強かった洋服屋をやろうと、地元の高校の駅前に古着屋をオープンすることになります。

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