日本のものづくりの、
再認識。
フラットヘッドのものづくりはアメリカで始まりました。舶来ジーンズに憧れ、メイド・イン・USAのファッションに憧れた私は、古着の調達を進める中でビンテージをつくる業者と出会います。しかしそこで愕然としたのは、それまでアメリカのものづくりが一番だと思っていたところに「1インチ以内は誤差だから」と言われて納得の行かないものを納品されたことでした。昔のままでよいという価値観だとその誤差を許したものづくりになってしまうと危機感を覚え、昔の技術や考え方と現代の技術や考え方をいかに融合するかが大事だということに気付かされます。それをきっかけに日本に帰ってものづくりをしようと決めました。
ものづくりにおいて、こうじゃなければいけないという枠の中に決まっていることをやることは何もおもしろくありません。苦労して良いものをつくる、守るものと変えるものを決めてやることで、古き良き価値観に現代の新しい技術を吸い上げることができるのです。
ただ日本でのものづくりも前途多難でした。ジーンズにしてもTシャツにしても、最初は無理です、難しいですということを言われ続けました。例えばTシャツは、「3本針の1本外し」という製法がアメリカでは1940-1950年代にかけて主に百貨店で売られていました。当時の百貨店ですから、最上のものが売られている場所という位置づけのものでした。
3本針の1本外しとの、
運命的な出会い。
そのとき実際のものを買い付けの際に見つけ、今でも大切に保管していますが、それを持ち歩いて縫製工場を回ったのを覚えています。当時のTシャツでは表が30番糸、裏が50番糸という綿糸を使った縫製でしたが、僕は現代ではもっとよくできるのではないかと思い、より太い20番糸で縫えないかに挑戦をしたのです。20番糸はジーンズの裾上げに使うような太さのため、織り組織のジーンズとは異なり編み組織のTシャツに使ってしまうとTシャツに穴が空いてしまうのではないかということで縫製工場からは反対されました。
できないと言われると余計にやりたくなってしまう性格のため、20番の綿糸でどうすれば3本針の1本外しを実現できるかという挑戦が始まります。そのときに出会ったのが安曇野にある志村縫製で、最初は「絶対無理だよ」という反応でしたが、1940年代のアメリカでは30番糸で縫えるものがあったのだからと試行錯誤が始まります。ラッキーだったのはたまたま志村縫製には昔のミシンがたくさんあり、そこにペガサスミシンの松岡さんという方がミシンに改良を加えることでできるのではないかという検討が始まり、実現に至ります。残念ながら20番糸による3本針の1本外しが実現する頃には松岡さんのお父様は他界されるのですが、息子さんが改良ミシンとTシャツを見せた際に、「これで世界一のものができた」と仰ってくださったそうです。
僕たちのものづくりはこうした一見無理とも思える要求に対して、縫製の職人たちの魂の入った探究心と仕事によって成り立っています。世界一のTシャツは、世界一のものづくり、縫製職人たちの手から生まれます。誰もが着るTシャツだからこそ、徹底的にこだわりました。